ミャンマー
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ミャンマー連邦(ミャンマーれんぽう)、通称ミャンマーは、アジアの国。首都はピンマナ(旧首都はヤンゴン)。東南アジアのインドシナ半島に位置し、国境を中国、ラオス、タイ、バングラデシュ、インドと接する。
国名
正式名称のビルマ語表記は、右の表の国旗の上を参照。ラテン文字転写(一例)は、Pyidaungzu Myanma Naingngandaw (ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー)。通称は、Myanma Naingngan(ミャンマー・ナインガン)。
1989年以降の公式の英語表記は、Union of Myanmar(ユニオン・オブ・ミャンマー)。通称は Myanmar。
1989年以降の日本語表記は、ミャンマー連邦。通称は、ミャンマー。
1948年から1974年まではビルマ連邦、1974年から1988年まではビルマ連邦社会主義共和国、1988年から1989年まではビルマ連邦。通称は、独立以前から一貫して、ビルマ。漢字で緬甸と表記され(読みは「ビルマ」)、緬と略された(読みは「メン」。泰緬鉄道など)。日本軍統治第二次世界大戦の間通稱にされる。 緬甸は、中国語からのそのまま輸入されたもの。ビルマは、江戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語由来説もある)からもたらされた。
1989年6月18日に軍事政権は、国名の英語表記を、Union of Burma(ユニオン・オブ・バーマ)からUnion of Myanmarに改称した。軍事政権が代表権を持つため国連と関係国際機関は、「ミャンマー」に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本のマスコミは多くが外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」を使い続ける社もある。アウンサンスーチーやNCGUBなど軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英BBC、『ワシントン・ポスト』などの有力英語メディアの一部、および主要な人権団体は「ビルマ」の呼称を続けている。アメリカ合衆国、イギリス、オーストラリア政府などは「ビルマ」とし、EUは「ビルマ」と「ミャンマー」を併記している。
ビルマ語では、「ミャンマー」も英語のBurma(バーマ)の由来となった「バマー」も同じ意味の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多いという違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。正式名称としては、独立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、1989年の英語表記変更によって内外の呼称が統一化されたことになる。
歴史
ビルマ王朝
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してパガン王朝を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。
イギリス統治時代
1824年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争ではインドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争では、ビルマは国土の半分を失い、1858年〜1861年新首都マンダレーを建設して遷都する が、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王 (Thibaw Min) と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに追放され、流刑になり、その地で死亡した。
ビルマ人の対英独立運動は第一次大戦中にはじまり、世界大恐慌以後若い知識層の間に広まった。 1930年にはタヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い、下ミャンマー全域に広がったが1931年半ばに鎮圧された。
1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐(ビルマ戦役の始まり)し、1943年日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。その後、インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるや、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。現ミャンマー連邦政府はその建国をビルマ連邦共和国が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない。ミャンマー国軍は1942年のビルマ独立義勇軍健軍をもって国軍建軍としている。
独立
1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦共和国として独立するが、直前の1947年7月にアウンサンは暗殺された。 初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。 独立直後からカレン人が独立闘争を行い、共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。1949年、国共内戦に破れた中国国民党軍の残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国連で台湾国民政府と米国の策動に抗議した。また一方でシャン州に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍勢力を一掃した。ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。
軍事政権時代
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の最高指導者として、1988年まで軍事独裁体制を維持する。1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く。 同年9月18日に軍部がクーデターにより政権を掌握する。総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成される。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟(NLD)を結党するが、スーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁される。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてNCGUBを樹立した。その後、スーチーは1989年から1995年まで、また2000年から2002年まで自宅に長期軟禁された。また2003年5月には地方遊説中に軍政側の襲撃を受け、その後現在まで自宅軟禁状態に置かれている。自由な政治活動が許されず、軍事政権の独裁が続いている。2005年11月、政府機関がヤンゴンからピンマナへの移転を開始した。
政治
国家元首は、国家平和発展評議会(SPDC)議長。国家平和発展評議会は、1988年9月18日のクーデターにより国家権力を掌握した軍事政権が創設した国家法秩序回復評議会(SLORC)を、1997年11月15日に改名した組織。立法権と行政権を行使する。首相は、評議会メンバーの1人で行政府の長ではなく、政治的影響力はさほどないと思われる。
現在活動を停止させられている議会は、一院制の国民議会(英語でPeople's Assembly、ビルマ語でPyithu Hluttaw、人民議会とも訳す)。485議席。議員は、民選で、任期4年。前回選挙は、1990年5月27日に投票が行われ、国民民主連盟(NLD)392、シャン諸民族民主連盟(SNLD)23を獲得、国民統一党(NUP)10、その他諸政党が60の議席を獲得した。しかし、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けている。その為、NLDなどの反軍事政権勢力は、1990年にビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)を組織し、軍事政権に対抗している。政党については、ミャンマーの政党を参照。
軍事政権が、新憲法制定に向けて基本原則を審議する国民会議を2006年10月にも再開する見通しを明らかにした。
国際関係
ミャンマーは中立的な立場による等距離外交を基本方針としているが、1983年10月にはラングーン事件を北朝鮮の所作として北朝鮮と国交を断絶した他、1997年7月には東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟している。また、欧米諸国とは、ミャンマー国内の人権問題や政治の民主化をめぐる問題で対立しており、アメリカやEUからは経済制裁を受けている。その一方で、インド洋方面への進出口を求めている中国からは多額の援助を受けている他、インドとは経済的な結びつきを強化しているなど、近隣の大国とは比較的良好な関係を築いている。
隣国タイとは歴史的な経緯もあって国家間のライバル意識が強い。歴代のタイ政府は、タイ・ビルマ国境に展開する反軍政民族武装勢力の存在を基本的に黙認し、ビルマ国軍とのバッファーゾーンとして利用してきた。また90年代のタイ民主党政権(チュアン、アナン両政権)はビルマ軍政の政策に批判的な立場を取り、軍政との関係も決して良好ではなかった。しかし90年代後半には保守政治家チャワリットらが提唱する「建設的関与」論が力を持った。政府はビルマとの距離を縮める方向に傾き、97年のビルマのASEAN加盟にも賛成した。これは軍事政権の長期化を踏まえた上で、政治改革に向けた努力を後景に退かせ、国境地域の天然資源確保や国境貿易の拡大による経済効果を優先した結果である。ASEAN加盟後のチュアン政権やマレーシア政府の取り組みの積極性は、少なくとも主観的には、ビルマを地域政治の枠組みに入れた上で、民主化を促す点にある。ビルマへの「建設的関与」策が成功すればASEANの国際的地位を飛躍的に高めるはずだったが、ビルマ軍政は自らの支配を危うくするあらゆる改革に反対する姿勢を貫き、この舞台に決して乗ることはなかった。アウンサンスーチー襲撃事件と同氏の自宅軟禁の継続、キンニュン元首相の更迭劇、首都移転、ASEAN側が派遣した特使への丁重とはいえない処遇といった一連の政治的動きは、ASEANの「建設的関与」策が完全に破綻したことを示している。チャワリットに代表される経済優先路線を拡大したのがタクシン政権である。同政権は国境の反政府武装勢力への圧力を強め、タイ国内の反政府活動家や難民への取締を強化している。
ミャンマーは1954年11月の平和条約締結以来、日本と友好的な関係を築いてきた。特にネウィンは日本の政治家に根強い親ビルマ的空気を敏感に察知し、「親日国ビルマ」を演出するパフォーマンスに長けていたことは現代日緬関係史の常識に属する。このことがBSPP時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼしている。欧米諸国とは対照的に、1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認した他、軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ミャンマーの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、対話による解決を粘り強く働きかける方針を採用しており、これまでに幾度か軍事政権に働きかけを行ってきた。しかし、これまでのところは芳しい成果が上がっておらず、日本政府の対ミャンマー政策を批判する意見もある。ミャンマーの軍歌には軍艦行進曲の旋律を流用したものがあり、ミャンマーにおける親日感情の存在を示す根拠として提示されることがある。
軍事
ミャンマー国軍は1942年に創設されたビルマ独立義勇軍をその起源とし、国軍最高司令部、陸軍司令部、三軍情報司令部、空軍司令部と海軍司令部などからなる。タン・シュエ上級大将が国防軍最高司令官である。現有兵力は38万で、うち陸軍34万、海空軍各2万、別に6万余りの警察部隊がある。陸軍は12の軍区、10個機動師団に編成され、海軍基地、空軍基地が各6個ある。志願兵制。対外的な軍事同盟締結を拒否し、原則的に外国に対して軍事基地を提供していない。ただし、中国は例外で、1994年6月から大ココ島(Great Coco Island)を賃借しており、中国はレーダー基地と軍港を建設している。
1990年代までは社会主義国であるにも関わらずビルマ式社会主義という独自の立場を取っていたため、旧東側からの支援はほとんど行われず、主に「黄金の三角地帯」対策として対ゲリラ戦程度の限定的に供与されたアメリカの装備(UH-1汎用ヘリコプター、AT-33COIN機など)を中心にしていた。90年代以降はアメリカからの支援は断絶状態となり、代わって中国が台頭しつつある。また、限定的であるが軍備の国産化も実施されている。
地方行政区分
7つの管区(タイン)と7つの州(ピーネー)に分かれる。管区は、主にビルマ族が居住する地域の行政区分。州は、ビルマ族以外の少数民族の居住地域で、自治権が認められている。
ミャンマーの地方行政区分管区 - 右図の黄色
エーヤワディ管区
ザガイン管区
タニンダーリ管区
バゴー管区
マグウェ管区
マンダレー管区 - 2005年11月から首都となったピンマナが管区南部に位置する。
ヤンゴン管区
通俗的に、上ビルマ (2,5,6) と下ビルマ (1,3,4,7) に区分される。
州 - 右図の桃色
カチン州
カヤー州
カレン州
シャン州
チン州
モン州
ラカイン州
地理
ミャンマーの地図ミャンマー連邦は北緯10度から20度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。中国・タイ・インド・バングラデシュと国境を接し、東南アジアとインド亜大陸の接点に位置している。海側はマルタバン湾・ベンガル湾・インド洋に接する。国土の中央をエーヤワディー川が縦断しており、河口付近は広大なデルタ地帯を形成している。
経済
1962年から1988年までビルマ式社会主義という国家基本要綱に基づき、国有企業主導型の経済開発が行われた。この期間中、経済は著しく停滞し、他のアジア諸国と大きな差を生む結果となった。
1988年に社会主義計画経済を放棄し、民間企業主導型の輸出指向型の政策を打ち出した。 最近では工業部門が飛躍的に成長し、工業化が進展しているように見える。しかし、これは、天然資源開発中心の国有企業主導型の工業開発によるものであり、民間製造業主導型の工業開発ではない。天然資源開発は急速な早さで環境を破壊している。また、天然資源採掘地域においては、強制労働・強制移住などの人権侵害が行われているという事実がある。
以上の事実から、欧米諸国はミャンマー製品の輸入禁止や、新規海外直接投資禁止などの経済制裁を行っている。 特にアメリカのミャンマー製品輸入禁止と送金禁止はミャンマー経済に大きな影響を与えている。 近年、民間製造業において急速に発展してきた縫製産業は、そのほとんどがアメリカ向けの輸出産業であったため、経済制裁発動後は多くの工場が操業停止状態に追い込まれ、そこで働いていた多くの労働者が職を失った。
このように、ミャンマー経済は政治的要因により、離陸の機会を失っているのである。
国民
人種・民族
ビルマ族 68%
シャン族 9%
カレン族 7%
ラカイン族(ラキン) 4%
中国系 3%
インド系 2%
モン族 2%
他 5%
宗教
上座部仏教 89%
キリスト教 4% (バプテスト教会 3%、ローマ・カトリック教会 1%)
イスラム教 4%
精霊崇拝(信仰) 1%
その他(ヒンズー教など) 2%
言語
ビルマ語(公用語)
少数民族諸語(シャン語、カレン語など)
文化
世界遺産
ユネスコの世界遺産への登録はないが、世界三大仏教遺跡の1つであるバガン(旧称パガン)の寺院群が、登録申請中である。

